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第3話 離婚を告げた夜、黒い車が迫った

Author: 星宮 凪
その夜、私は大阪・中之島の料亭を訪れた。

九条興業の取引先である神戸港湾サービスの山田社長との会食のためだ。

私は淡い色の訪問着に袖を通し、会食の席に着いた。

神戸港周辺の物流施設をめぐる契約で、半年以上前から先方との調整を続けてきた。

まさか征士郎が莉香を連れて現れるとは思わなかった。

山田社長が到着する前に、二人は当然のように私の向かいへ腰を下ろした。

事情がのみ込めないまま、私は二人に帰るよう告げた。

「今夜は、神戸港湾サービスの山田社長と約束があります」

征士郎が片眉を上げた。

「山田社長は、俺に会いたくないとでも言ったのか」

私は黙り込み、それ以上追い返すことができなかった。

離婚を決めたとはいえ、征士郎が今も私の上司であることに変わりはない。

ほどなくして山田社長が到着し、会食が始まった。仲居が日本酒を注ごうとしたとき、私は杯を伏せた。

杯を伏せながら、妊娠が分かった日の診察で、医師から念を押された言葉を思い出した。

「以前、交通事故で流産した際に子宮を損傷しています。今回妊娠できたこと自体、奇跡に近いことです」

「もし再び流産すれば、今後の妊娠が極めて難しくなる可能性があります」

「申し訳ありません。今日はお酒を控えさせてください」

向かいに座る取引先の社長は、穏やかにうなずいた。

「もちろんです。無理に飲む時代でもありませんから」

それで終わるはずだった。

「でも、澪さんって昔からお酒に強いんですよね?」

莉香が無邪気そうに首をかしげた。

私は冷ややかに言った。

「誰から聞いたの」

莉香の笑顔が凍りつき、不安げに征士郎を見上げた。

「私、また何か余計なことを言ってしまいましたか……?」

征士郎は莉香の髪を優しく撫でると、私へ冷たい目を向け、杯を取るよう命じた。

「澪、たかが一杯だ。子どもでもあるまいし、いつまでも意地を張るな」

私は杯に手を触れなかった。

「飲めない理由があります」

「体調が悪いのか」

ようやく征士郎が私を見る。

私は一度、息を整えた。

「私、妊娠しています」

座敷がしんと静まり返った。

征士郎の指が、膝の上で止まる。

「……いつ分かったの」

「莉香さんが、あなたとの写真を投稿した日」

莉香の笑顔が固まった。

それでもすぐに立ち上がり、自分の杯を持った。

「おめでとうございます。私、どうしてもお祝いしたいです」

「やめろ」

征士郎は反射的に莉香の手をつかんだ。

「おまえは妊婦だ。酒を飲むな」

私ではなく、莉香の身体を案じる声だった。

莉香は目に涙を浮かべた。

「私が来てから、澪さんを怒らせてばかりだから。せめて、この一杯で謝りたくて」

「謝る必要はない」

莉香は顔を上げると、杯の酒を一気にあおった。

次の瞬間、眉を寄せて激しく咳き込み、頬を真っ赤にして目に涙を浮かべた。

征士郎は杯を取り上げ、私へ冷たい目を向けた。

「これで満足か」

「何が?」

「莉香に、ここまで気を遣わせて」

「私が飲ませようとしたわけじゃない」

「莉香の腹の子に何かあったら、俺は一生おまえを許さない」

私はわずかに目を上げ、感情のない声で答えた。

「ご自由に」

山田社長にひと言詫び、私は席を立った。

背後から、征士郎の怒声が飛んできた。

「澪、俺はもう十分我慢した。おまえは、莉香のすることが何もかも気に入らないんだろう!」

「そこまで莉香を受け入れられないなら、いっそ離婚すればいい!」

少し驚いたものの、不思議と心は静かだった。

結婚して五年、彼は一度も私との関係を公にしなかった。

それなのに今、私に莉香へ頭を下げさせるため、自ら私たちの関係を明かしたのだ。

怒りに顔を歪める征士郎を見つめ、私は静かにうなずいた。

「分かった。離婚しよう」

そう言い残し、私は振り返ることなく座敷を出た。

店を出ると、私は榊原先生に電話をかけた。

「榊原先生。先ほどの件ですが、正式に離婚の準備を進めてください」

「分かりました。今、安全な場所にいますか」

話している最中、一台の黒いセダンが私の行く手を塞いだ。

それは九条家の車だった。

後部座席から、若い組員が二人降りてきた。

「姐さん、申し訳ありません。本家へお戻りください」

「戻りません」

「組長の命令です」

道を変えようとした瞬間、背後から鋭いヘッドライトの光が目を刺した。

振り返るより先に、別の車が勢いを落とすことなく私めがけて突っ込んできた。

激しい恐怖に呑み込まれ、膝から力が抜けた私は後ろへよろめいた。

車は衝突寸前で急ブレーキをかけると、すぐに方向を変えて走り去った。そのとき、遠ざかる車のナンバーが一瞬だけ視界に入った。

後ずさった足が、石段の縁を踏み外した。

身体がぐらりと傾いた。

誰かが「姐さん!」と叫んだ。

次の瞬間、腰と腹に激しい痛みが走った。

スマートフォンが石畳の上を滑っていく。

遠くから、榊原先生の声だけが聞こえた。

「九条さん?聞こえますか」

起き上がろうとして、着物の裾に触れた。

指先が、赤く濡れていた。

目を覚ますと、白い天井が見えた。

消毒薬の匂いと、一定の間隔で響く機械音。

腹の奥に、重い痛みが残っている。

「九条さん」

カーテンが開き、女性医師が入ってきた。

その表情だけで、聞く前から分かった。

「残念ですが、赤ちゃんの心拍を確認できませんでした」

私は天井を見たまま、うなずいた。

涙は出なかった。

「以前の流産と、そのときの子宮損傷についても記録を確認しました。今回の処置を終えたあと、今後の妊娠について改めて詳しくお話しします」

「もう、難しいですか」

医師はすぐには答えなかった。

「可能性がなくなるとは言えません。ただ、次の妊娠には慎重な管理が必要です」

それだけで十分だった。

看護師に家族への連絡を勧められた。

私はスマートフォンを握りしめた。征士郎の名前を見つめても発信ボタンを押せず、結局、榊原先生に電話をかけた。

突っ込んできたのは、征士郎の車だった。

あのナンバーは、昔、征士郎と二人で選んだものだった。
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